「平静を装うのがお上手ですね」
「あ、え…?」

待って、と振り返って声をかけようとしたら、紳士はもう人ごみに紛れてしまうところだった。 私は伸ばしかけた手を下ろした。なんとも虚しい気持ちのまま。






a blue rose slip his mindベルベットは青い薔薇






柳生くんという人を、私は多く知らない。なんとなくどこのクラスで、どこの部活で、といった彼を取り巻くものは感覚的に知っていた。 けれども、彼と話したことなど、私が覚えている限りでは1度もなかったはずだ。

私はひんやりとしたカウンターの椅子に腰を下ろした。本で埋め尽くされた空間には生温かい日差しが満ちている。 手近にあった、分厚いハードカバーの本を捲って、そこに羅列されただけの文字を追う。 平静を装うのがお上手ですね、と言った紳士の言葉がまだ耳に残っている。

私はチューイングキャンディーが入ったボトルの蓋に爪をかけた。ぽこ、という間抜けな音と共にレモンの爽快なにおいがした。 このすっぱく、どこか苦い味は悲しい。理由はわからない。レモンを苦いと感じる私の味覚もわからない。 ただ、空虚な喪失感と愛憎に似た気持ちが、奥底の方で暗く、深く、渦巻いていくのがわかった。 チューイングキャンディーは好き。歯に纏わりつく最低な感じが、なんとも言えないくらいに。 私はぐちゃぐちゃになったキャラメルの感触を舌の上で転がした。

すると突然、膝の上の携帯電話がブルブルと振動した。

私はぎくりとして、サブディスプレイから除く送信元の名前に見入った。まさか。思わず私はメールボックスを開こうとした。 と、日差しを遮る影が目の前に立っていることに気付いて、私は目線だけ少し上に上げた。 真正面に、緩めたネクタイのしっぽがくたり、と静止している。ぱちん、と携帯を閉じる音が無機質な響きをもってじんと沈んだ。

「見たぞ」

委員が図書室で菓子食っていいんかね、と仁王は意地悪く笑った。

「いつから居たの」
「メールは見ないんか」

いいよ、もうどうでもいい奴からだもん。そう言うと仁王は苦笑して、チューイングキャンディーのボトルを親指の爪で弾いて開けた。 それ、私のなんだけど。

「てゆーかもうすぐ授業始まるじゃん、戻れば?」
がサボるんなら俺も此処に居る」
「じゃあ授業出るよ」

なんだよ。馴れ馴れしく下の名前で呼んでんじゃないよ、ばーか。 私は決して口に出してそれらを言ったわけではないけれど、仁王は「あー…」となにやら頭を抱えて椅子に落ちた。 投げ出された足はすらりと長い。いや、そんなことはどうでもいいけど。










「アイツと別れた」


本鈴が鳴って20分が過ぎようとしていた。髪伸びたな、てかこれ酸っぱいな、という不自然な会話を散々うろうろして、仁王はようやく本筋を口にした。

「…へー」
「いや、なにその反応、」
「だからどうしたの、っていう話だよ」

私はそう言って口を閉じた。仁王は、今度は苦々しく笑ったりしなかった。ただ日が差し込む窓の外を、ただ静かに眺めていた。 ぬるい日差しは仁王の色落ちした髪を金色に透かした。長い睫毛が、すっきりと通った鼻筋が、私の目に鮮やかな色彩を残す。 どきり、と心臓が跳ねたのがわかった。こういうところは昔から、嫌いだ。 仁王のまわりには、常に確信めいた罠が敷き詰められている。

「もうやめなよ」

仁王は整った顔を私に向けた。何もかも整いすぎていた。少し暗い色をした目も、歪んだ眉毛も、結んだだけの唇も。 それらすべてが私の心を掴むための罠だろうと思ったら、無性にその、申し訳程度に悲しそうな顔をした仮面を、粉々に砕いてやりたくなった。 綺麗に作られた嘘なんて見飽きた。

「どんなことをしたって、私はもう雅治なんて呼ばないよ」
、」

仁王はそれこそ絶句、といった表情で私を見ていた。ちょっとは反省したらいいんだよ。

私は嫌な女になってみた。もしかしたらこれが私の本性なのかもしれない。 あんたが誰と付き合おうが、手を繋ごうが、キスしようが、私は何ともないんだから。 ぼろぼろに傷付けばいいよ。あんたも、弄ばれた女も。

ガタン、と乱暴に椅子が倒れた。

私は瞬きさえできないまま、ネクタイを掴まれ、引き寄せられ、間近に迫った整った顔が近付いて、唇に触れて、離れていくまで、されるがままだった。 まるで犬の首にかけられた紐を力いっぱい引きずるような仕草で。

「もう、終わったことでしょう」

ここで仁王の横っ面を引っ叩ければ、大声で喚き散らせば、私は後々まで清清しい気持ちになれただろうと思う。 乱暴に扱われた部位はひどく苦しくて、ただ小さな咳が2つ3つ、弱々しく漏れただけだった。

「いいや。何も終わってなか」

私は力なく椅子の上に落ちた。仁王はひどくゆっくりと遠ざかって行く。 その色の落ちた髪も、遠ざかってゆく背中も、長い足も、冷たい唇も、過去はすべて私のものだったのに。 そして私も同じようにして、

、メールは見んの?」

図書室の戸を半分開けて、仁王は視線だけを私に投げる。それだけを満足げに呟いて、私の返事も待たずに仁王は本だけの空間から抜け出した。 後には、溶け損ねた砂糖のような私だけが残った。

私はのろのろと投げ出された携帯を開く。そしてすぐさま、閉じた。そして、もう1度開く。





受信[ 1/833]
仁王雅治
10/23 12:18
無題

拝啓、サマ。
俺がまだおまえのこと 好きだって言ったらど うしますか。
―END―



どうもしません。私は携帯のボタンの、は行を1回と濁点を1つ、わ行を4回と、か行を1回プッシュして送り返した。

ことの重大さに気付くがいいわ。

 

 

 

20051101