雲海
そばにいると気圧されてしまうようなオーラしか放たなかったネジの眼差しが溶けたのはいつからか。 めずらしく雨が降った。通り雨だろうから、とネジはあたしを縁側に案内してくれた。 いかにも厳格な雰囲気の漂う日向のお屋敷だけど、多分ネジが昔のままだったらあたしは今ここにいない。 きっと濡れ鼠になってこの雨の中を走って帰っただろう。
あたし達は会話という会話はあまりしなかった。
「今日はしないの?」
ネジはあぁ、と少し眼差しをやわらかくして雨だれを見上げた。ぽた、ぽた、と屋根から落ちてくる雫は、雨独特のざぁざぁという音と混じって異質だった。 柳の葉が、濡れた髪のように垂れ下がっている。「いまはお前がいるから」とネジは小さく笑った。 その仕草が別人のようで、違和感に似た寂しさを覚えた。 そういえば彼は少年だった。大人びた風を残しながらも、そう呼ばれる年齢だったのだ。そして自分も、十分に少女と呼ばれてしまう齢だということに気付く。 自然だったはずだ。変化というものは誰にでも興りうる可能性なのだから。この雨の中、リーはガイ先生と修行をしていると聞く。 砂隠れの子に送り届けられてからというもの、リーは修行の鬼だった。ネジも。テンテンも。みんなみんな変わっていく。 川の流れに浮かんだ木の葉がその流れに逆らうことはできないように、空に浮かんだ雲が風に流されていくように。 それはかわすことのできないもののような気がした。そうしてあたしも変わっていくのだろうか。 過去の自分と近い未来の自分と、それをずっとイコールで繋いでいたいのに、それは時間が許さないのだ。 今のあたしは、いつか消えてしまう。この喪失感をどうやって埋めればいいのだろう。 ネジは雨だれの音を聞きながら、どうしたと言わんばかりにあたしの方を向く。最大視界360度の白眼って厄介だ。 真正面を向いていても、どこを見ているかなんてこちらにはわからないのだから。 その広い視界の中心にあたしが存在していると思うと、なんとなく恥ずかしいような気がしてネジの顔を見ないように雫が光る屋根の先を見上げた。 ぴちゃん、と雫は地面に叩きつけられた。そして水溜りの中に溶けこんで見失った。悲しかった。 屋根にくっ付いていれば消えなくてすんだんだ。
あ の 雨 だ れ は あ た し だ 。
あたしは屋根に必死でしがみ付いたまま手を離すことができずにいる。まわりがひとつ落ち、ふたつ落ち、そしてまた新たな粒が育つ。 いつまで手を離さずにいられるのかなんて、なんて下らない。自分の意思にしろ、不可抗力にしろ、あたしは次のために落ちなければならないんだ。 そして弾けて、あたしは、消える。
「変わりたく、ないなぁ…」
あたしには白眼なんて大層なものはない。だけど視界のはしっこでネジが見えた。
「いずれ人は変わるぞ」
( 知ってる )
自分を脱ぎ捨てていくのは悲しかった。こうしてまわりはどんどん常に変わり続けていて、置き去りにされるのは悲しかった。 でも、自分で自分を置き去りにして行くのはもっと悲しかった。寂しかった。 何かを得るには何かを置いて行かなければならなくて、行ったり来たりを繰り返している。 この手を放さずにいられれば、どんなにか楽だろう。
光はだんだんと強くなり、雨だれが落ちる間隔はどんどん開いていく。
そろりそろりと手をのばす。最後の一滴が指先に触れて、弾けた。すっと晴れ間がのぞいて柳の木はきらきらと陽を反して光った。 「止んだな」とネジは呟いて、勢いをつけて庭におりた。なんとなくその先にはついて行けずにあたしは足を揺らす。
白い雲が雨雲を追い越して右から左へと流れていく。
070304/一部改稿 |